パソコンの私的歴史

2003

おナース号

みけねこウルトラモンスターゴージャス号改

2002

2001

おナース号

みけねこウルトラモンスターゴージャス号

2000

1999

おナース号

ニューみけねこ号

1998

1997

みけねこ号

BREZZA5133DA

1996

PC-486ME

PC-9821AP

1995

1994

1993

1992

1991

1990

PC-386M

1989

1988

1987

PC-8801MK2SR

1986

PASOPIA7

1985

1984

PC-6001


1984年頃

 この頃が,第一次パソコンブームであったように思う。とあるデパートで4万円(定価は8万6千円程度だったと思う)で展示品処分のNECのPC-6001を買ったのがパソコンとの出会いであった。「カセットポン!パピコン!」とCMでさんざんやっていたと聞くが,なんてったって展示品処分。買った頃は,すでにテレビの中で後継機種のPC-6001MKUを上半身裸の武田鉄矢がふりまわしていたものである。PC-6001は,8ビット機で,テレビと繋げるオモチャみないな丸っこいマシンだったが,ROMカセットを挿入することでゲームやメモリ増設が出来るファミコンを予想させる先進的な機構であった。

 その頃,パソコンは,なんに使えるのか分からないけど,なんでも出来るんだと熱いなにかが信じられており,BASICVISUALでない)で1から10まで足し上げるプログラムを作ってプログラマーを気取ったり,テープで(音楽用テープだ)ゲームをロードして,またREAD ERRORだわとクルクル巻き戻していたものである。

 第一次パソコンブームと独断で言ったのは,デパートにパソコンコーナーがどんどん出来,テレビコマーシャル華やかだったから。パソコンはマニアのものから一般へ普及する契機を得た時期であった。

追記

 当時,日曜日の9時30分からテレビ東京の「パソコンサンデー」という番組を見ていた。下条アトムなど今をときめく綺羅星の如きスーパースターが出演していて,これで私はBASICなど覚えたものだ。(もちろん今はスカッと忘れたが。)1999年1月,その番組のドクターパソコンこと,宮永好道氏が亡くなられた。「パソコンは,ソフトが無ければただの箱」という有名な言葉を残したのが宮永氏である。一つの時代の終わりを感じる。

1986年頃

 ゲームのひどさ(解像度・色数・スピードその他全て)に少々あきたらなくなっていた私は,ある電気ショップで東芝パソピア7が定価11万8千円のところが,衝撃の展示品価格である7万円で売っているのに気づき,思わずバイト代をたたき,買ってしまったのであった。これまた名機であり,横山やすし親子がコマーシャルしていたことはもちろん,キーボードテンプレートが赤青緑と3種類あって,自在に取り替えられることにいたく感激したのであった。

 もちろんのこと,将来性チェックも抜かりなし。東芝の広告がパソコン雑誌の裏表紙(ここは広告代が一番高いのだ)にことごとく載っているのを確認してのことだった。その頃,富士通のFM-7やら三菱のMULTI8やら日立のS1やらシャープのMZ,X1やら各メーカーが独自路線で百家乱立の状態。やがて消えゆくマイナー機種なぞ買おうものなら一生モンの後悔だと賢い私は考えたのであった。

 …そして…,東芝も消えていった。発売予定であった5インチ2Dの2連装フロッピードライブも出ないまま。(やむを得んと買ったのが,5インチ1Dのフロッピードライブ。またまた展示品処分であったが,とぼしい蓄えから4万円を出すときはさすがに手がふるえたものである。これは,驚異であった!160Kもの大容量データが一瞬で読み書き出来るのである。しかし,ディスクベースのゲームの1つも出なかったのであった。)

1987年頃

 この年,私は,大いなる野望を胸に秘めバイトにいそしんでいた。PC-8801MK2SRを買うのである。このマシンは,5インチFDを2機とFM音源を搭載し,漢字ROM標準装備のゲーム,仕事なんでもござれのスーパーコンピュータであった。聖徳太子22枚が時空のかなたに飛び去ったことは,暗澹とする思いであったが,この後,PC-8801MK2FR,FE,TR,MR,VA,MCと続く長い我が世の春を謳歌したシリーズとなり,パソピア7の失敗は繰り返さないですんだのであった。その頃,PC-9801とか言う16ビットのパソコンがあったようであるが,だいたい音源さえついておらず,まあ,業務用のシロモンだなと勝手に決めつけていた。

 第一次パソコンブーム終焉の時代であった。百家乱立から残ったのはNEC・富士通・シャープの御三家。実際は,ガリバーNECにやっと富士通・シャープが頑張っている状態であった。デパートのパソコンコーナーは,静かに文具コーナーになり,コマーシャルはもう既になかった。パソコンは,何でも出来るどころか何にも出来ないことが一般に知れ渡ってしまった。「ゲームならファミコン,仕事ならワープロ専用機の方がよっぽど優れとる。パソコンは半端モンじゃきに。」そして,88シリーズから98シリーズに続く長い日本標準機の停滞期が始まる。

1990年頃

 PC-98シリーズの絶頂の時期であった。平氏にあらずして人にあらず。98にあらずしてパソコンにあらず。ゆっくりと機種は出していったが,前モデルとさして変わるわけでもなし。一度買えば(但し,ミドルゾーンのマシンは30万円台と高値安定であった。),2〜3年は満足して使えるありがたい停滞期でもあった。変化と言えば5インチFDが3.5インチにゆっくり変わり,FM音源が搭載され,88やFM-7シリーズなどが,最後っぺをひりながらいつのまにか消えていった。

 そこに乱入したのがエプソン。98互換機をNECより高性能なものをより安く売り出したのである。NECの反応は激烈であった。訴訟をおこし,OSにいわゆる「エプソン・チェック」と呼ばれる互換機排除機能をつけ,エプソンが新機種を出すとNECもすぐ出すといった具合ににわかにあわただしくなったのである。ガリバーの一角が崩れた。一部の拡張カードも,サードメーカー排除のためにnecの文字列を返さなければ使えないようにするなど,当時NEC(と任天堂)は大人げないことをするとさんざんけなされていたものだ。

 その頃の98のフラッグシップはPC-9801DAで386の20MHz。40万近くした。で,選んだのがエプソンのPC-386M。386の16MHzで福沢諭吉22枚であった。ひとつ型落ちであったが,電源ロックキーがついており,独自拡張グラフィックモードで256色(98は16色)が出せたのである!おお〜すごい。でも,拡張モード対応のソフトは全然出なかったけど(正確には美少女ソフトが1・2本)。質実剛健で安心できる機械であった。雑誌の「これからは,大容量100MBHDの時代だ」の記事を読み,その大容量とやらのHDを買ってしまったくらいである。

 

1996年頃

 話はチト長くなる。NECの98全盛期は,特にコンパックショックを嚆矢とするDOS/V陣営の低価格攻撃により翳りが見え始めた。定価450,000前後と長く設定してきたNECのフラッグシップは,もはや高性能・低価格のDOS/V機に抗しがたくなって来たのである。DOSの時代はよかったが,Windows3.1ともなると,過去のNECのソフトの資産は大した意味もなくなってしまった!NECは,PC-9801FAを最後に9821シリーズとなり,事実上DOS/V機に歩み寄り始めていくこととなった。エプソンも98互換機として頑張っていたが,NECのしばしばの仕様変更に耐えきれず,ついにDOS/V陣営に移ることとなる。NECも戦略の失敗を悟ったのか,例のエプソンチェックをようやく外したが,あまりに遅すぎた。間に合わなかった。PC-9801シリーズが日本の国民標準でいるためには(あるいは延命するには),IBMがそうであったように,仕様を公開して日本メーカーによる98互換機市場を確立しておくべきであったのだ。

 その頃,何も知らない私は,ボーと新しく出来た郊外型パソコン店に入ってみた。よい天気で,土曜日の午後である。しかもおなかがくちく,誠に幸せな気分であった。そして,幸せな気分で店を出たときは,PC-9821Apを担いでおり,サイフから3万9千8百円がなくなっていた。中古とは言え,格安ではないか。家に帰って,早速DOSを入れ,ゲームをしてみた。おお,早いじゃ〜ん。と感動は一瞬。「ん〜。今ちまたで騒いでいるWindows3.1つうのを一度やって見たいのう。それをやらんで年とって死んじまうんじゃつまらないわい。」を考え出すと後は早い。3日後にショップに行って,エプソンのPC-486MEととっかえて参りました。詳細は次のとおり。39,800円で購入したApを19,800円(泣き声)で売る。79,800円の中古のMEを買う。結局99,800円かかった訳である。コイツは,いい機械だった。(と言うか,まだ家にある。)486・66MHzのエンジンに540MのHD,4倍速CD-ROMに15インチディスプレイの一体型。かくして,マルチメディアなるものを体験した次第。

 しかし,MEを抱えてにんまり笑っていた瞬間,もはや時代は,Pentiumであり,Windows95が目前にせまっていた。そして,98UPGRADEを標榜したエプソンは,MEを最後に98互換路線から撤退するのである。

 

1997年頃

 エプソンからWindows95を直販で購入してPC-486MEを使っていたが,遅い。遅い!遅すぎる。もう,PentuumもMMXが出たじゃないか。一太郎7を入れてみたが,スゲー遅いと言うかウルトラ遅い。これじゃやっぱりDOSの一太郎5で仕事をしている方がはるかにマシ。そんな不満をどす黒くうずまかせながら,昼休みパソコンショップを覗いてみると,なんと,東芝のBREZZA 5133DAが138,000円で在庫処分しているではないか。コイツは,現行機種であったあのカッコイイ黒BREZZAと似ても似つかず,コケシを両脇に置けるような長ヒョロイ筐体(実際,15インチディスプレイとスピーカ2つ同時にのった)で,Pentium133MHz(クラシック)のエンジン,今でも十分仕事になら使えるスペックである。1晩じっくり考えた後,次の日には買ってしまった。ディスプレイ込みのオールインワンなら十分安いし,なんと言ってもPASOPIA7の東芝ではないか。横山やすしは亡くなってしまわれたが。

 さて,この頃から第二次パソコンブームが始まったと思う。具体的にはWindows95発売をもってである。デパートのパソコンコーナーも復活したし,コマーシャルも始まった。ドテラを着た小太りで胴長短足のむさ苦しい男が秋葉原をケケケと笑いながら徘徊するイメージからヤングエクゼグティブがノートパソコンを小脇に颯爽と歩くイメージに変化した。パソコンが趣味だと言おうものなら,「キャー。ケダモノよ。」と逃げていった女の子も,今や「ステキ」とうるんだ目で見つめるようになった。第一次の時と比べ,パソコンの性能は格段に上がり,ゲームも専用機並み,仕事も使えるで,ワープロ専用機をあっさり駆逐してしまったくらいである。よく分からないマルチメディアから分かりやすいインターネットが合い言葉になった。インターネットはカラッポの洞窟,便所の落書きとの批判はあったが,先のことはわからず,今現在及びここ十年は,情報に関する最も有望な媒体であるのは間違いない。

 長くなってきた。後は簡潔にいこう。そんなある日,パソコン雑誌の広告に,ミドルタワーとマザーとFDと12倍速CD-ROMのキットが59,800円で載っていたのに気づき,つい買ってしまったのがきっかけで今度は自作(組立)に熱を上げることとなった。CPUはK6-200からK6-300となり,36倍速CD-ROMやHDをどんどん追加しまくった。BREZZAで現在残っているのはFDとスピーカーだけである。

 NECのPC-9800帝国は崩壊し(モデルはまだあるが,売る気の感じられないスペック),富士通のシェアはNECをあっさり蹴落とし,Windows98が発売された。東芝は,デスクトップ市場から事実上撤退し,各メーカーからモデルは乱発され,活気を呈している。そして,第二次パソコンブームは終わりつつある。確かに,これからもコンスタントにパソコンは浸透していくだろう。しかし,Windows95発売時の勢いは既に衰えつつある。当時,コリャ買わにゃならねェと山一つ売ったチャーザー村のじいちゃんやバッチャン,モノノケ村のバケネコたちも,リプレース時期を迎えた今,買い換えようとはすまい。インターネットでマルチメディアをニューテクノロジーできるとだまされて買った一体型パソコンは,クモやサソリの住処となっている。もう普及するところは普及してしまったのだ。近所のデパートのパソコンコーナーは,女性下着売場になってしまい,より楽しい場所になってしまった。次の第三次パソコンブームが起こるためには,パソコンがより家電に近づいていかねばなるまい。

(筆者であるみけねこは,ここまで一気に書き上げ,筆を折るつもりであったが,残念ながら時代は進む。やむなく,以下追加していくことにする。)

1999年頃

 インターネットブームである。長引く不況であるが,パソコン界は一応堅調な活況を呈している。郵政省の調査によると,家庭のパソコンの普及率は32.6%,インターネットは11.0%だそうである。しかし,現実にご近所を見渡すと,とてもそのような数字になるとは思えない。タクワン石になっているヌカくさいパソコンの存在や,一人で何台も所有しているウルトラオタッキーの存在を考えると,パソコンが1割,インターネットの普及が3〜5%が妥当な数字ではないか。このたぐいの数字は,実際より大きくなるのが一般だ。しかも,伸びも鈍化しているという。インターネットをやっているオタッキーだって,3割がパソコン情報,6割が美少女鑑賞,残りの2割がスカトロ情報くらいしか検索していない。情報化時代の到来は,バラ色ではなく,まだまだ灰色がかったシマシマのピンク色くらいだろう。将来性は認めるが,今現在の有効性はさして評価するものではない。

 さて,とある日,つらつらトイレで考えているに,パソコンの筐体とハードディスクがあれば,余った古い部品でパソコンがもう一台組めることを思いついた。そうなると,もうガマン出来ない。一応見るだけ見てみようと,パソコンショップに出かけることにした。たまたま,寒い日が続き,車のバッテリーが(砂漠の水たまりの如く)ひえ上がっていたので,バイクで出発した。どうせ今日は,見るだけだし。まず,一軒目のショップでは,ハードディスクが安かった。幸い,筐体が結構高くて,しかもデザインがダサかったのは幸いであった。しかし,ついでだから,もう一件見てみるかと考えたのは,不幸であった。その店は,筐体が大特価セール中(9,800円)であり,形がなんとも美しかったのである。もちろん,後先考えずに,買って,バイクに(若しくは腹の上に)乗せようとして,目の前がマックラになった。不可能である。人間業では!1996年のPC-9821Ap事件を思い出したが,ハッキリ言って,あれより遙かにデカイ。バイク運転が年月を経てうまくなった上昇率より,デカサ率の上昇カーブは,急上昇であった。そこで,中身だけを取り出し,箱を店に返して,再チャレンジした。おおっ。なんとかなる。ハンドルが曲がらないことを除けば。四苦八苦して家に帰り,直ちに一軒目のショップに走り,ハードディスクを買ったのであった。かくして,旧BREZZAの血をより濃く残すセカンドマシンが出来上がったのである。

 不可思議なことに,K6-350MHzマシンと比べ,新しいPenium133MHzマシンは,オフィスアプリを動かす点では,まったくスピードに遜色はなかった。ビデオカードなどは,確かに新しいものに換えてはいるが,仕事程度の処理では,3年前の主力CPUでも差し支えないことが判明した。3カ月ごとにグレードアップするCPU神話は崩壊し,舞踏病の如くメーカーの思惑で踊り狂う愚かさを思い知ることとなった。
 と,書いて数ヶ月後には,K6-III 450MHzを買ったのは言うまでもない。もちろん,体感速度としてはわずかなアップである。しかし,それを言っちゃあおしまいなのである。普通はこう言いふらすものだ。「イヤーっ。早くなって早くなってまいったよ。イヤイヤ,困った困った。失敗,失敗。こうも早くちゃね。ワッハッハ」

 こんな文を読むと,筆者はさぞやパソコンオタッキーだと思われるに違いない。計算すれば,初めてパソコンを持って16年にもなるではないか。ウーム。我ながら信じられん。そんな長の年月だなんて!しかし,決して詳しいわけでも大好き過ぎるわけでもないのだよ。持ってはいたが,机の上のオフジェとして愛でていた時期はその間極めて長いし,ゲームしかやらない時期は,もっと長かった。どちらかと言うと,パソコンというものは,趣味なり仕事なりを実現する上での便利な補助道具にしか過ぎないと思う。結構便利なものだが,それに集中するだけの価値はない・・・

 「パソコンオタッキーの怪」
1 難しい話を絶対噛みくだいて話さない。
2 横文字を必要以上に使う。しかも,その特殊な名詞の意味をコンリンザイ説明しない。
3 なぜか最後の「ー」を省略したがる。「コンピューター」→「コンピュータ」,「フロッピー」→「フロッピ」 
4 イエスかノーかの単純な問いに対し,まず,自分の知識をさんざん話し,結局その問いには答えない。
5 相手の意見を認めることは断じてしない。いかなる手法を使っても。
 パソコンオタッキーという言葉には,少々語弊がある。パソコンが好きな人・詳しい人と同義ではない。パソコンが詳しい人で,正義とユーモアあふれ,弱きを助け強きをくじく好漢をいく人も知っている。パソコンという言葉にも少々語弊がありそうだ。パソコンと言うより,パソコンを含めたソチラ関係と言うべきである。まあ,言いやすいので,ここでは「パソコンオタッキー」という言葉を使わせてもらおう。
 パソコンオタッキーは,頭がいい。本人も自分がオリコウサンと思っているから,なおさらタチが悪い。頭の中が複雑すぎて,単純明快な話が出来ない。人の愚かな話を聞くよりも,自分の意見を述べる方が時間が有効的だと考えているので,あまり人の言っていることを聞かない。また,知識があるだけに,誇り高く,人を言い負かせないではいられないし,自分の知識を披露するあらゆる機会を見逃さない。他人が自分の意見と違う考えを持っていると知った時,驚くほど態度が急変し,喧嘩腰となる。そういう他人の考え=場合もあるなんて,あり得ないと信じている。おもしろいことには,誇り高すぎるが故に,人に負けないための無意識の言葉の詐術を使う。「AはいいがBはダメだ。」「しかし,この場合のBはAに近いではないか。」「B(とA)はダメで,Cがいい。」論理の矛盾をきたすが,本人は大真面目である。自省する能力に関しては大いに欠けているのだ。
 結論:論破は不可能(相手が認めないため)なので,必要とあらば負けてやる。
 ま,世の中にゃ,無責任な人やワガママなこまったチャンも多いからネ。それよりマシか。

 と,このような文を書いたこともある。結構批判的なのだ。

 批判ついでにもう一つだ。逆に分からないことを錦の旗のように振りかざして,出来ないからやってもらって当然と考えている人間もいる。年齢がいっていればまだしも。しかし,若者でこうなのだ。こちらの方が,オタッキーより悪質でずるい人間というべきだろう。こういうセリフをよく吐く。「研修を受けさせてもらってないから。」こう答えてやりたいものだ。「ナニー!コッチは,親会社の受注した工事を丸投げされる下請けじゃねー。オレだって,自分の金でパソコン買って,本屋に行って,MS-DOS入門やら初めての一太郎4.3やらこづかいで買って勉強したんだ。まず,少しは自分なりにやってみて,それから出直してこーい。」パソコンが多少出来る人間は,職場では無償ボランティアの役割を大なり小なり負わされるものだ。概ねは心地よく引き受けるのだが,せめて,自分がやるべき仕事を人にタダでやってくれと頼んでいるんだとの意識くらいは持つべきであろう。

 インターネット専用端末モドキは,過去にいろいろと出て,すぐに消え去っていった。ピピン@マークとかウェブTVとかね。なぜか売れないのだ。今日(8月13日),お茶の間ショッピングを見ていたら,発売されてまだ2週間のシャープのプリメーラを紹介していた。基本的には,シャープの書院を拡張して,プリント機能やインターネット・メール機能を統合したものだ。パソコンはパソコンに違いないが,メニュー画面など,ダイナブックEZを思い出すもので,いかにも操作性がいい。特筆すべきはデザインセンスの良さ。iMAC風の一体型コンパクトオボディは,いかにも可愛らしく,リビングに似合う。むむ。ピピンと来た。これは売れる!このマシンは,昔述べた家電に歩み寄ったパソコンがついに出たと言っていいだろう。みんなパソコンをやりたいわけじゃない。インターネットやら電子メールやら年賀状印刷をやりたいんだから。しかも,お値段は,定価135,000円のところが,今だけ99,800円の特別ご奉仕価格ときたもんだ。10万を切れば家電製品だ。予言しておこう。こりゃ,来るぜ。思っていたより早く。パソコン界の再編の時代が。

2000年頃

 なんて考えたら大間違いだった。恥ずかし〜。フナフナフナ。
 やはり,インターネットの時代となった。思いもかけなかったのは,携帯電話対応のインターネットである。NTTドコモの「iモード」などパソコン出荷台数を追い越してしまった。ただし,ここには数字のロジックがある。インターネットHP閲覧なんかより,携帯利用者は,メール利用が主。メール利用よりは,もちろん電話利用が主。それにしても,世の中様変わりしてしまった。山姥ギャル達は,「ガハハ」と笑いながら,携帯でおしゃべりしながら,シブヤを闊歩する。電車の中でチーマー達が,ペースメーカー何するものぞとしゃべりまくる。車の中でサラリーマン達が,携帯を使いながらフラフラ運転する...。ほんの1年で日本はこんなになっちゃった。あれれれ?
 Pentium(MMX)からPentiumIIへ。PentiumIIからPentiumIIIへ。でも,ボクは相も変わらず
K6-III 450MHzマシン。でも,いいんです・・・Windows2000も入れちゃったし。そんなにスピードに遜色はありませんしね?

2001年頃

 涙のパソコン組立記(AMD Athlon 1.4&ECS K7S5A)へ。

2003年頃

 パソコン組立記 リローデッド(AMD Athlon XP 2500+&ASUSTeK A7V600)へ。

 

 

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