うつぼ会の冒険
−黒船旅行記(伊豆・堂ヶ島〜下田)−
2004年11月19日(金)〜20日(土)

 序章  ”うつぼ会”の秘密

 その昔。ボクタチは,夏休みの旅行に新潟は瀬波温泉に行く計画を立てた。この旅は”みけねこ真紀子隊”として公表されるはずだったものである。しかし,その日は,なんと巨大台風直撃。せっかく朝4時に起きたものの,高速道路が閉鎖されるは,川は氾濫してNHKだの宇宙企画だのテレビカメラが,ウンコにたかるウジのようにワラワラ集まってくるは・・・という訳で中止となったのだった。
 3年前。みけねこが親睦会(当時:ろくろ会)の幹事長になった時。捲土重来。この瀬波温泉への親睦旅行を自ら企画したのである。その一部始終は,期間限定であったが”みけねこ奴隷隊”と題して面白おかしくネットで流したのを覚えておられる方もいるかも知れない。なお,このタイトルの理由は,幹事長なんて名ばかりで,ガレー船の漕ぎ奴隷となんら変わらぬ身分であったことからつけたものである。
 昨年。みけねこは親睦会(当時:みずち会)の旅行幹事(なぜか毎度毎度幹事なのである)であった。この始終は,”親睦を深める楽しき温泉旅行”として超クソつまらないものを作り,親睦会員閲覧用として,これまた期間限定でネットで流した。

 そして今年。みけねこは親睦会(うつぼ会)の会計幹事となった(またかよ〜。それにしても,不思議とだんだん地位が下がってるのだ)。今年は新潟佐渡旅行である──であった。あの新潟県中越地震が起こるまでは。本来であれば,本書は,”みけねこジェンキンズ隊”となるはずだったものである。
 急遽変更された先が,伊豆堂ヶ島・下田への旅。本書は,”みけねこ奴隷隊”と”親睦を深める楽しき温泉旅行”の中間くらいの筆致で記録に残すものとする。これは,職場における今後の人間関係を考慮しての ことである。
 題して,”アンクル・ミケの小屋”・・・じゃなかった。もっとありきたりでつまらないタイトルにしなくちゃ。”うつぼ会の冒険−黒船旅行記(伊豆・堂ヶ島〜下田)”とでもしましょうか。なお,「黒船」とは,みけねこのブラックな気分を表現したものである。

 奈良時代。伊豆の国は,北部の田方,東南の賀茂,南西の那賀の三郡に分かれていた(元々は駿河国の一部であったと考えられる)。略称は豆州。文化的には後進の地であったが,都から罪人が南伊豆や伊豆七島に流されることによって,徐々に都の文化が伝達されていった。

 武家の時代となると,北伊豆には北条,新田などの豪族が割拠し,治承4年(1180)8月。伊豆半島の付け根に当たる蛭ケ島(韮山町)に配流されていた源頼朝が,地元の豪族・北条時政の力を得て挙兵し,鎌倉幕府を打ち立てた。その後,二代将軍・源頼家が伊豆の修禅寺に幽閉・暗殺され,北条氏が執権職として権威をふるうようになる。
 南北朝時代には,新田氏と足利方の激しい戦闘が行われる。また,室町時代には,幕府から派遣されたものの,対立する鎌倉公方に妨害されついに鎌倉入りが出来なかった足利政知が韮山町(堀越)に御所を構え,堀越公方となった。
 延徳3年(1491)。伊勢新九郎(北条早雲)が,第二代堀越公方・足利茶々丸を攻め,伊豆を傘下に納める。
 天正18年(1590)。豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏は滅亡するが,この中で,下田城は豊臣方の長宗我部氏らの攻撃によく耐え,50日余の築城の末落城した。

 その後,伊豆は徳川家康に与えられ,江戸時代になると,君沢郡が分けられ四郡となって,群小の旗本の所領として, 領主が目まぐるしく変わっていく。

 このように伊豆は,歴史的に考えると,半島の付け根部分を除き,あまり見るべきものがなかった。理由としては,平野部が少なく強力な武士団が形成される余地がなかったためではないかと考えられる。しかし,そんな伊豆も,ある日突然日本の歴史の表舞台に踊り出すことになるのだ...

 

 2004年11月19日(金)

 一章 うつぼ会員全員集合!(東京駅)

*集合について:自由集合とする。東京駅八重洲南口改札前に10:40分までに集合。昼食用の弁当は各自持参のこと。

東京駅八重洲南口

踊り子号

 雨...朝からみけねこの気分を象徴するように雨がシトシト降っていた。みけねこは我が家を8時に出発。
 10:10。集合場所である東京駅八重洲南口改札前へ到着。黄色と黒のジャパニース・ビジネスマーンが急ぎ足に通っていく。今日は金曜日なのだ。それにしても,うつぼ会の連中集まりませんな。確かに集合時間より30分早い...しかし,会員たるもの。幹事に心配をかけさせないよう約束の時間より最低でも30分以上前に来るのは,常識というものではないだろうか?

☆東京駅(11:00)−【スーパービュー踊り子1号】−伊豆急下田駅(13:40)

 11:00。三々五々ようやく集まったうつぼ会員たちは,踊り子号にゾロゾロと乗り込んだ。みけねこが乗り込もうとした時・・・制服姿のオネエサンが鋭くみけねこを呼び止めた。「切符を拝見します!」
 おそらく,自爆テロリストと疑われたのだ!この善良なみけねこを。確かに,みけねこの容姿は,イラク人のような深い彫りの顔立ち,胸まで垂れる顎髭,頭に巻いたターバン,狂信的な目つきをしているのは認めよう。認めますけど──しかし,そりゃないですぜ。

 

 二章 初めての伊豆へ(西伊豆<堂ヶ島温泉>)

 踊り子号は,東海道本線を踊るように走る。みけねこは,さっき東京駅で買った880円の弁当(都会の弁当って高いですね)の蓋を開けた。本親睦旅行においては,うつぼ会員は,各自お弁当を買って食べることとなっている。うつぼ会は貧しいのだ。

 熱海を過ぎ,踊り子号の世界の車窓の外は,小雨と白い霧。単線のため,時々待ち合わせの停車時間がある。列車の左手には段々畑の黄色いみかん。しかし,かなりスッパイと見た。突然,右手に伊東の海が広がった。──どんよりした黒い海。ぬっ。伊東に行くならハトヤ発見!4126(ヨイフロ)に電話して死ぬ前に一度だけでも,海底温泉に入りたいものだ・・・

 13:40。定刻どおりに伊豆急下田駅到着。

−【徒歩すぐ】−下田バス停(14:00)−【東海バス(下田〜蓮台寺〜松崎〜堂ヶ島,1,360円】−堂ヶ島バス停(14:58)

伊豆急下田駅

バスが出ちまう〜

 駅を出て,大急ぎで東海バスの営業所に飛び込み,バスのチケットの手配。バスの時間まで20分しかないのだ。ここで旅行会社から預かったチケットと交換した”南伊豆フリーパス”(2,790円)を使えば,南伊豆地方の路線バスが4日間乗り放題となるのだ。

 14:00。バス乗車。なんとか間に合った。これから,堂ヶ島行き路線バスで,1時間弱の行程である。
 バスの乗客の半分近くは,学校帰りの小さな子供たち。一人降り二人降り・・・窓は湿気で曇ってしまい,外が見えない。長い長い時が流れた。停留所にあまり駐まることなく,半島内陸部のなんてことない道をバスは走り続けた。蓮台寺を通り,婆娑羅峠を経て,松崎を経由する。

 15:05。バスは,定刻よりやや遅れて,終点である堂ヶ島バス停に到着す。

 

 三章 堂ヶ島のアナボコ(天窓洞へ侵入せよ!)

<堂ヶ島温泉>

 静岡県静岡県賀茂郡西伊豆町に在する。
 頂に松を乗せる小島が点在する,西伊豆を代表する景勝の地であり,ここ堂ヶ島は,"伊豆の松島"という別名を持つ。昭和37年に湧き出した比較的新しい温泉地でもあり,これは,西伊豆に温泉が少ないことを嘆いた,堂ヶ島温泉ホテル創業者・小松原三郎氏が初めて温泉の掘削に成功したのが堂ヶ島温泉の始まりである。
 美しい景色はもちろん、海水浴・磯釣りなどの地としても知られる。

☆堂ヶ島バス停−【徒歩すぐ】−堂ヶ島桟橋

 堂ヶ島は,雨にけぶっていた。昨日の予報では,この時間は雨が上がっているはずだったのに...

 バス停から地下道を通って,遊覧船乗り場へ急ぐ。受付で割引券を見せて,一割引の一人当たり830円にしてもらう。桟橋では,遊覧船がちょうど出払ってしまったところで,10分少々待たされた。ちめたい。くそっ。雨が降ってなかったらなぁ。まだ16時前だってのに,もう結構暗いですし。

 ──ようやく,遊覧船・シーハーモニー号が「ドンブラコー ドンブラコー」とハーモニーを奏でながらやってきた。えらくちっちゃいぞ?しかし,うつぼ会員たちは,喜んで「ピギー!」と叫びつつ乗船す。灰色の海を,うつぼを満載にして走る一艘の白い船。まさに一幅の絵ではないだろうか?
 定員 46名,長さ 11.52,幅 3.20,深さ 1.55,トン数 10.0,最高速力 19.0ノットのシーハーモニー号は,伊豆の海をひた走る。「本日天気晴朗ならずとも波低し」伊豆の海はとても穏やかだった。
 この航海のメインイベント”天窓洞”のところで,みけねこはすばやく船尾へ移動す。ここは屋根がないため雨は避けられないが,その分見晴らしは宜しい。もし,皆さんがこれに乗られるとしたら,遊覧船の座席なら左。出来れば船尾に出ることをお勧めする。

●堂ヶ島洞窟めぐり遊覧船(堂ヶ島マリン) http://www.izudougasima-yuransen.com/

遊覧船

 堂ヶ島桟橋から遊覧船で,リアス式海岸を進み,神秘の洞窟へと向かう夢と冒険と友情のコース。蛇島,稗三升,大幕海岸,亀甲岬などを巡る。干潮時、海の中から道が現れ,島へ歩いて渡ることが出来る(トロンボ現象)ことで有名な”三四郎島”を経由し,亀島にある,天井から美しい光が降り注ぐ長さ147mの海食洞窟”天窓洞”などを見学する。
 大人:920円,子供:460円,出発間隔:10〜15分ごと,運行時間:8:15〜16:30,所要時間:20分

堂ヶ島桟橋は雨・・・

この戦艦に乗るのじゃ

いっくわよ〜

結構早いですゾ

天窓洞へトツゲキー

上に穴ぼこ開いてら?

そこから雨が落ちてくるぜ

穴兄弟(失礼)の遊覧船が来た

 そこは,不思議で幻想的な場所。みけねこパスタ隊が出かけたあの”青の洞窟”の256分の1くらいの 良さであった。これで晴れてくれていれば──ねぇ!

 

 四章 伊豆の全てを知り尽くせ!(ピアドーム天窓)

15:40。桟橋からすぐの”ピアドーム天窓”へ。

●堂ヶ島ビジターセンターピアドーム天窓

 天候に左右された堂ヶ島観光のマイナス面を補うべく,堂ヶ島観光の要として創られた観光施設。ジオラマ・展示物で伊豆の全てを知り尽くすことが出来る大変お得な施設。ここを見れば,もうわざわざ伊豆なんか行く必要はなくなるのだ。見所は,直径15mもあるドームシアターでのバーチャルトリップ。
 静岡県賀茂郡西伊豆町仁科2097-1,0558-52-1119,入場料900円

*もし,遊覧船で時間がかかって,ピアドーム天窓の入場時間に間に合わなかった場合...”加山雄三ミュージアム”の土産処等で17:00頃まで自由行動も良い。
 その後,徒歩乃至ホテル送迎バスにてホテルに向かう。
*その他,お勧めは,加山雄三ミュージアム(お勧め度0.1),らんの里堂ヶ島(お勧め度5),沢田公園露天風呂(お勧め度256)など。

ピアドーム天窓

超面白いパネルとジオラマ

 ピアドーム天窓──見た感じは大きめのレストランのよう。中に入ると,エスカレータも止まっているし,人気どころかネコ気さえないですし。少々不安にかられながら動かないエスカレータを上って2階へ。よかった。つぶれていなかった。またまた割引券を使って一割引の一人当たり810円にしてもらう。我がうつぼ会は,それほど裕福ではありませんからな。
 ドームシアターは,次回16時からの開演なので,それまで少々パネルやジオラマを見て時間をつぶす。伊豆水軍やら地元の陶芸家のテヒネリやら・・・なんとなくマイナー。

 16:00。ドームシアター開演。伊豆堂ヶ島が世界に誇るドームシアターとは,丸いスクリーンに伊豆の海産物や観光スポットが20分ほど映写されるというシロモノであった。せめて,椅子が画面に合わせて振動するのではないかと思ったのだが,この椅子が振動する時は,地震の時だけのようだ。昔だったら,みんな「オオー」とか「技術の進歩バンザーイ」「明るいナチョナル」とかコーフンして大絶叫するところであろうが,今となっては古めかしく,お子様だましである。うつぼ会員たちも,鼻クソをほじったり,ムッツリと怒りの表情で幹事を見つめている。・・・まだしも,”加山雄三ミュージアム”方がマシだったかも知れん。あそこだったら,青大将の描いたシロウトハダシの絵やレコードやキーホルダーを買うことが出来たのに。

 16:40。外に出ると雨はますます強くなっていた。ホテルに電話して,バスで迎えに来てもらうことにした。ホテルまでは歩いても10〜15分くらいなのだが,みんな疲れてションボリしていた。

 

 五章  こうして夜は更ける(堂ヶ島温泉ホテル)

☆堂ヶ島バス停−【ホテル送迎車】−堂ヶ島温泉ホテル
*チェックイン
 ・部屋割
 ・翌日の朝のホテルバスを依頼(9:30に,堂ヶ島バス停まで出してもらいたい)
 ・会員へ周知:明日の予定について


 16:45。ホテル着。チェックインと部屋割。
 規模も大きいし,堂ヶ島の老舗ということもあって,ホテル自体はまずまず。但し,それ以上の感想はなかった。昔ながらの宴会巨大ホテルという感じがする。

 夜の宴会の時間は,18時からとしたため,それまでしばし時間がある。温泉入ってこよ。
 まずは,1階の大浴場”オーロラの湯”へ。いかにも大浴場大浴場している。しかし,源泉100%を自慢するだけあって泉質はさすがに宜しい。無職透明無臭ながら,”化粧の湯”の二つ名に恥じぬ,まるでニベアコールドクリームのような肌触りだ。ヌルヌル感も申し分なし。
 また浴衣を着て,今度は,露天風呂”渚の露天風呂”へ。露天へは裸のままアクセス出来ないのだ。
 そこでは,大阪民国の人が何人かで,見せっこしていた。流行っているのだろうか?

オーロラの湯(脱衣所)

オーロラの湯

露天への出口

 残念ながら,もはや真っ暗であり,伊豆の海を見ることは叶わなかった。
 部屋に戻る途中,飲泉所があったので飲んでみた。カルキの味もレジオネラの味もまったくせず,クリーミーでフルーティであった。

●堂ヶ島温泉ホテル http://www.doh.co.jp/

 三四郎島を見下ろす高台にあり,ホテル横の道を下っていくと,すぐトンボロが現れる海岸へアクセス出来る。先に述べたように,堂ヶ島温泉を掘り当てた偉人がこのホテルの創業者である。
 温泉は,海岸沿いから湧出する源泉にもかかわらず,塩分を含まないPH9〜9.3の高いアルカリ性が特徴。入浴後の化粧水が必要ないと感じるほど潤いを保つことから「化粧の湯」と名付けられる。この湯はここ一軒だけでしか入ることは出来ない。
 堂ヶ島バス停から坂道を徒歩10〜15分。

 18:00。宴会開始。海の幸は大変美味しかったが,量が少なかった。サカナ大好きのうつぼ会員たちは,さぞ幹事に苦情を述べ立てるかと心配したのだが,心やさしきうつぼたちは,何も言わなかった。ただ,顔つきが不満そうだったのみである。

 20:30。幹事部屋にて冷蔵庫からビールを出して二次会開始。
 22:00。みけねこは,「ちょっとアソコ洗ってきます。グヒヒ」と言って,また”オーロラの湯”へ。アソコとは,頭である。
 22:30。風呂から戻ると,宴もわなけただった。「わなけた」とは,たけなわの逆で,終わりかけているという意味である。思っていたよりかなり早い...そういえば,今回のうつぼ会の旅行で,みけねこが一番若いのだった。但し一番元気はない。

 23:00。就寝。なかなか寝付けないみけねこが意識を失ったのは,この部屋の中で最後だっただろうという──そんな強い確信はあった。

堂ヶ島温泉ホテル

静岡県賀茂郡西伊豆町仁科2960
.0558(52)0275
アルカリ性単純温泉(低張性・アルカリ性・温泉),41度 大浴場"オーロラの湯"(男女),露天風呂"渚の露天風呂"(男女),貸切露天風呂"瀬浜の湯""磯笛の湯"
 2004年11月20日(土)

 六章 1・2の三四郎(堂ヶ島温泉の朝)

 6:45。起床。さっそく,露天風呂へ。ホテルの温泉に入るのは昨日から三度目となるわけだが,月々払い込んでいるクソ高い親睦会費の元を少しでも取り戻す必要がある 。
 ”渚の露天風呂”は・・・相変わらずいい泉質である。むっ。露天から見える三四郎島へのトンボロが消えかけておる...干潮の時間は,約1時間前 だったはず。ちょっと行ってみようか。

渚の露天風呂(脱衣所)

渚の露天風呂

露天から三四郎島が見える

 露天風呂脇の階段からゴロゴロした丸石の海岸に降りることが出来る。 丸石は,足の骨を折るのにちょうどいい具合の大きさだ。行ってみようか・・・とりあえず,トンボロに片足だけかける。ヒョイ。よし。これで渡ったも同然だ?

●三四郎島
 瀬浜海岸の沖に浮かぶ象島・中ノ島・高島の総称。干潮時にはトンボロ(砂州)が現れ,中ノ島まで歩いていける。

 源氏再興の昔。瀬浜が繋ぐ三つの島のひとつ"中の島"に,平家の目から逃れた伊豆の三四郎と呼ばれる若武者が隠れ住んでいた。
 治承4年。源氏の白旗が伊豆にひるがえり,頼朝の使者が,出陣の知らせを仁科の豪族瀬尾行信のもとに知らせた。
かねてより三四郎に恋心を抱いていた行信の一人娘小雪は,一刻も早くその知らせを三四郎に伝えようとして,島に渡ろうとしたが,上げ潮の怒濤の中に彼女の姿は呑まれてしまったのである。

 今にも消えようとしている海の道を,必死で走る少女の姿は,源平の昔から語り継がれる。 

 部屋に戻ると,窓から,消えゆくトンボロを必死で渡る浴衣姿の若者二人 が見えた。場所によっては,もう膝近くまで波が寄せているようだ。新たなる小雪伝説を目指すのだろうか。

 7:30。朝食。ここで本日の行程の変更が行われた。

☆堂ヶ島温泉ホテル(9:30)−【ホテル送迎車】−堂ヶ島バス停(9:45)
☆堂ヶ島バス停(9:45)−【東海バス 堂ヶ島〜松崎〜蓮台寺駅〜下田駅,1,360円】−下田バス停(10:43)

 下田では,MAX4時間ある。マップでもくれてやって適当に自由行動にするか,連れ回すか。
コース1 完全自由行動
コース2 下田ロープウェイ〜寝姿山まで・・・山頂で冷たくおっぱなす
コース3 下田海中水族館〜下田公園〜お食事〜お駅
     *この場合,食事処予約は必須となる。

 当初予定では,上の案が提出され,結局,コース2が採用されていた。
 ところが,この話し合いの結果,自由行動をしたいという(幹事にやさしい)うつぼたちの意見が多く,結局,堂ヶ島バス停で自由解散となった。但し,最後の伊豆急下田駅15時発のみ は変更せずである。

堂ヶ島バス停

 ホテルチェックアウト。思ったより,皆飲まなかったらしい。予定よりお金がかからなくて,幹事としてはホッとした。
 8:40。ホテル送迎バス出発。
 8:43。堂ヶ島バス停着。
 ここで,我等うつぼ会は三々五々に別れた。9:37のバスで伊豆半島を南回りに海を見ながら帰りたいとするグループは,バスの時間までこのあたりをブラブラすると去り。 青大将ファンは,”加山雄三ミュージアム”へ「ぼかぁ幸せだなぁ」と言いながら向かい。また,幾人かは,9:00発のバスにて下田に直行することになった。みけねこは, 最後の小グループに入った。ここから1時間の路線バスの旅。それでも2時間かかる伊豆半島南回り班を考えれば,その半分だ。
 昨日走った道を,バスはなぞる... 後で聞いた話だが,松崎は「世界の中心で愛を叫ぶ」のロケ地。そう知っていたら,ここでもちろん,「愛を叫んじゃうゾ!」とやるところだったが,残念である。しかし,松崎って世界の中心なのであろうか?

 9:58。下田バス停着。ロッカーに荷物を入れると,その小グループも解散。今までで一番楽な幹事業なのだ。

 

 七章 ひとり旅の始まり(下田到着〜宝福寺)
<下田>

 伊豆半島の南東部に位置し,南国情緒豊かな港町。下田湾に注ぐ稲生沢川河口に市街が広がる。温泉(下田温泉)はあるもののが,限りなく透明に近いブルー。実は湯量豊富な蓮台寺温泉から昭和7年から引湯している。下田温泉のネーミングには,少々疑問がある。
 日本人で下田の地名を知らない人はいないだろう。江戸時代末期までは,チョイと下の方にタンボがあったのが最大の自慢であり,この地に船改番所(御番所)が置かれたのが歴史として目立つくらいであったが,安政元年(1854年)。ペリーが浦賀に続いて下田に来航し,下田は一気に日本の歴史舞台に踊り出た。「泰平のねむりをさます上喜撰(蒸気船)」「たった4はい(4隻)で夜も眠れず」・・・
 アメリカによるスーパー301条の通商圧力に抗しえず幕府はここに「日米和親条約」を結び,ここ下田と函館の二港を開港した。また,ハリスが日本総領事として赴任したのもここ下田の地であった。
 ロシアのプチャーチンもアメリカに負けじと,「下田いいとこ〜一度は〜おいで」とディアナ号で歌いながらやって来たと云う。

 さて。これからどうしましょうか?まず地図をジックリ見てみよう。



 みけねこは,”まいまい通り”を歩き出した。下田の市街地にしては広めの道なのだが,なんてことない生活道路だ。ほんの5分ほどで...

まいまい通りはこんな道

宝福寺と唐人お吉記念館

唐人お吉の墓

お吉の写真。確かに唐人っぽい?

●宝福寺(下田駅から徒歩5分) http://www4.i-younet.ne.jp/~hofukuji/
 安政元年(1854年)に下田奉行所が置かれた。しかし,なんと云っても唐人お吉の菩提寺として有名である。境内には,お吉記念館(300円)もある。 

 すぐに,右手に宝福寺の”お吉記念館”の看板が見えてきた。記念館は入場料がかかるので,最初,お吉の墓だけ見ていこうと思ったのだが,お金を払って入場しないとお墓に行けない仕組みらしい。さすがではありませんか。仕方ありますまい...大枚300円を払って入場。記念館と言っても,小さな二部屋くらいにお吉グッズが展示してあるダケ。庭には,お吉の墓がある。

●唐人お吉
 本名・斉藤きち。船大工の娘に生まれた彼女は,安政5年(1857年)17歳の時に,下田奉行の命により米総領事ハリスの元に奉公に出る。恐ろしい人喰い赤鬼の妾ということで,彼女は生涯,ラシャメンとさげすまれた。幼なじみの船大工・鶴松と横浜に所帯を持つものの,次第に酒に溺れ別れる。古里に戻ってきたお吉は,髪結いや小料理屋をするもうまくいかず,彼女は,明治23年(1890年)51歳の時に稲生沢川の上流・お吉ケ淵に身を投げた。その引き取り手のない遺体は,「さわると指が腐る」と,二日間菰をかけられ放置さる。それを哀れんだ宝福寺住職が「如来の腕に抱かれたきょうだいである」として,彼女の遺体を引き取った。(後に住職は,この行動が元で近隣の寺や檀家にうとまれ,住職を辞するハメになる)
 後年,彼女の波乱の生涯が芝居となり,水谷八重子がお吉役を演じると,突如お吉ブームが沸き上がり,今では,小倉優子と唐人お吉とどちらが可愛いかについて,秋葉原界隈では激しいヲタク論争が巻き起こっている。

 お吉記念館の説明書きでは,お吉は妾とされ,伝承や映画なども同様の説を採る。しかし現実には,ハリスが病に伏したため,その看護のために雇われたとする説が研究者の共通認識である。お吉を奉公させるよう下田奉行所と交渉した通訳ヒュースケンは,そのつもりもあったかも知れないのだが,ハリスの病気の記録,また,51歳という年齢。謹厳実直なハリス自身の性格がそれを否定する。
 お吉は,ハリスを3日間看護したものの,お吉に腫れ物が出来たため,自宅療養を命じられる。数ヶ月奉公したという説(数年というものもある)は,正式にお吉の雇用が打ち切られた期間だと思われる。

 それでも,奉公を辞した後の,お吉に向ける下田の民の目は毛唐のメカケに対するものであったのは事実のようだ。それに拍車をかけたのは,お吉の奔放な性格であったのかも知れない。お吉は,どうしてそんな下田に戻ってきたのだろうか・・・お吉の負けん気の強い性格が逃げることを善しとしなかったのか,故郷があまりに懐かしかったのか,幕末の騒乱がそれをお吉に強要したのだろうか?
 お吉の伝説については,諸説入り乱れる。あの新渡戸稲造博士も,お吉の話をフィクションであろうと思っていたところ,宝福寺の過去帳に彼女の名前を見つけ,彼女の悲しさに同情し,お吉ケ淵に石碑を建てたのであった。

 なお,唐人お吉の本物の写真を見たい人は,右上の唐人お吉の写真をクリックのこと。お吉19歳,安政6年の時の写真(下岡蓮杖の弟子・水野半兵衛氏が撮影したものとされる)。凛とした眼差し,キリリとした口元。お吉の美少女ぶりに比べれば,小倉優子なんぞガッツ石松に等しいとみけねこは思うのだが。

 

 八章 珍なる宝を探して(了仙寺・宝物館)

 そこからさらに”まいまい通り”の突き当たりまで歩いて5分。左手の”了仙寺”へ。

ラマ

●了仙寺 http://www.izu.co.jp/~ryosenji/
 寛永12年(1635年),第二代下田奉行の今村伝四郎正長によって創建された日蓮宗の名刹。ペリーが下田に来航すると,ペリー一行の応接所となり,また日米和親条約付録13条(下田条約)の調印の場となった。この寺の境内には,幕末・開国異文化交流をテーマにした”黒船コレクション”やラマ教の秘仏や性を扱ったありがたい展示物が置かれてある宝物館(500円)がある。

了仙寺

秘宝館じゃなかった宝物館

 やはり,ここで期待すべきは,宝物館である。みなさんはご存じないかも知れないが,ラマの秘仏に関しては,みけねこは昔からひとかたならぬ興味を抱いていたのだ。
 さっそく,500円払って中へ。これでラマの秘仏が見られると思えば,タダ同然というものではないだろうか?
 宝物館は,アヤシイものを想像していたのだが,意外にも現代風の展示施設で,思いがけず本格的である。お年寄りの団体客でいっぱい。それにしても,下田の歴史やら開国の歴史やらのパネルや展示物。ぬぬぬ。そんなものはどーでもよろしい。肝心の聖(性)なる秘仏はどこじゃ?

 ようやく,奥の狭い一室にそれを発見。まあ,確かに道祖神とかハリ型とかこつまんない地獄絵図とかはチョイチョイとは並んでましたヨ。ラ〜マの秘仏もあった。しかし,期待するほどのモンじゃありませんな。しかも,写真撮影は不可である。海外の美術館や博物館(フラッシュは禁止)と違って,ヤッポンは相変わらずケチくさいですなぁ。まあ・・・こんなのをパルパルに載せるまでもありませんが。

 昔は観光地に必ずあって,今ではまったく見かけない秘宝館を想像していたんですけれども。ここは,ラーマ奥様インタビューと同じくらいに健全であった。

 

 九章 ペリカンロード(ペリーロード)

了仙寺参道から

ペリーロードへ

 そこからすぐ,了仙寺の参道でもある”ペリーロード”へ。ペリカンロードではない。
 ペリーロードと,名前は大変によろしいが,小さな”弥治川”沿いのなんてことない石畳の狭い通りだ。端から端まで,水前寺清子が歌うように「一歩進んで二歩下がる」歩行を行っ たとしても,10分とかかるまい。
 ペリーたちは,上陸地点から休憩所として提供された了仙寺までのこの道をノコノコ歩いた。しかし,ペリーたちはこの景色にさほど感心しなかっただろう。

マッチウセペルリ

ペリー提督

●黒船来航
 マッツウセペルリ提督の似姿。ペリー提督はもしかして日本で最も知られたアメリカ人なのかも知れないが,ハリス総領事と比べてあまり日本人に好かれていないのは,なにより顔が悪かった。こんな悪鬼じみた顔つきじゃ仕方ありませんな。なお,右側の写真は,日本の教科書等で誤って伝えられているペリーの写真。

 太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四はいで 夜も眠れず

 この狂歌。上喜撰とは,当時のお茶のブランド名であった。たった四杯のお茶を飲んだだけで,カフェイン効果で夜も眠れないという意味とを掛け合わせたものである。ちなみに黒船とは,船体を防水のために真っ黒なタールで塗っていたためである。

 左は,蒸気船サスケハナ号の絵図。こんな化け物じみたキモチワルイ怪物船に乗ってきたペルリを,当時の日本の人々がどう思ったか想像するまでもないだろう。

 1852年。太平洋捕鯨の補給基地を得るべく,アメリカのフィルモア大統領は,東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリー提督を特命大使として,日本に派遣することにする。ペルリ提督は当初,12隻の艦隊でもって日本を開国させるつもりであったが,準備できたのは,蒸気船サスケハナ号他4隻だけであった。
 翌年。その4隻の艦隊で浦賀にやってきたペルリ艦隊は,幕府にフィルモア大統領の親書を渡したいと交渉するが,案の定,長崎に回航せよとの幕府側の回答。そこで,ペルリ提督は江戸湾の測量を行ったり,空砲(礼砲)を撃ったりした。もちろんこれは脅しのつもりである。
 大あわてにあわてた幕府は,やむなく親書を受け取り,ペルリ提督は,「来年また返事を受け取りに来る。アイシャルリターン」とマッカーサー元帥のモノマネを披露して帰国する。「日本が協議を拒否し,商船・捕鯨船のための港湾を開港することを拒否した場合,アメリカ市民に与えた侮辱と損害との報償として,予は日本の属領である琉球を米国国旗の監視の下に置くであろう」ペルリの海軍長官宛の書簡にこう書いたように,これはまさしく,典型的な砲艦外交に異ならなかった。
 1854年。今度は7隻の艦隊を率いてやってきたペルリは,ついに幕府に日米和親条約を締結させることに成功し,下田と函館の二港を開港させた。

 この日米和親条約は,片務的な最恵国条款はあるものの,かならずしも不平等条約ととらえられるものではなかったが,そのたった二年後の1856年。不平等条約である日米修交通商条約が結ばれる端緒となるのである。軍事力に優れた者が正義。国際外交とは当時からそういう冷厳なもの。人生とはワンツーパンチなのである。

 

 十章 二人のレリーフ(下田公園)

 ぺりーロードから続く狭い階段を登って,”下田公園”へ。目立たぬここが公園への北入口らしい。
 
●下田公園
 戦国時代に下田湾を臨む小高い丘の上に北条氏が築いた鵜島城跡。そのため「城山公園」とも呼ばれる。展望台からは,下田湾や太平洋を一望出来る。山頂からは,下田港を眼下に瓜木崎や伊豆七島を,快晴の日はグアム・ハワイまで望むことが不可能だ。

FinePixを持った下岡蓮杖

 ところどころに,ボランティアのガイドさんの案内で歩き回っている二人組くらいの観光客グループがいる。かなり効率のいい歩き方と思う。しばらく登っていくと,大きな碑と立像が現れる。こりゃ,水戸黄門の像に違いないと思ってよく見ると,手にデジカメを持っているではないか。そう。”下岡蓮杖の碑”だった。彼は,ハリスの通訳ヒュースケン(ヒュースケンもたまにゃいいことをするんですね)から写真について教えてもらい,研究の末,横浜弁天通に写真館を開業した。彼の元からは,多くの門下生が育ち,下岡蓮杖は,日本の商業写真の祖として讃えられる。

 さらに登って行くと,どこかで見た毛唐の男性のレリーフが。フーム?見たことあるようなないような・・・・きっと,どっかのライオンズクラブの会長さんあたりだろう。連中すぐ像を立てたがるからな・・・と,通り過ぎたのだが,後でよく思い出したら,第39代米国大統領ジミー・カーター氏であった。懐かしいですな。

開国記念碑

開国記念広場より下田市街地方面を臨む

 そして,みけねこはさらに登る。山の中腹に現れ出でたるは,だだっ広い”開国記念広場”である。人っ子一人いない。広場の奥には,幅広の階段があり,中央に内閣総理大臣吉田茂筆の”開国記念碑”。その突き当たりは大きなレリーフがある。左右に二人の男の顔が彫られ,心にもないことが書かれている。

 「私の使命はあらゆる点で友好的なものであった ハリス」
 「余は平和の使節として比の地に来れり ペルリ」

 昭和28年。下田開港百周年を記念して建立され,毎年5月の第三週末に開催される黒船祭では,ここからパレードが始まると云う。そして──折しも,今年(2004年)は,下田開港百五十周年であった。

 さらに,みけねこはここから”馬場ケ崎展望台”への道を登ろうとした。そこから,グアムやハワイのワイキキビーチを見るのだ──れっれっれ?──『台風のため,この先通行を禁止します。静岡県』
 それでも,みけねこは行ってしまおうかと思った。カーター大統領だって言っているではないか?「Why Not the Best(なぜベストを尽くさないのか)」と。でもなぁ・・・みけねこが,もし地割れか崖崩れに遭って,はかない人になってしまったら,うつぼ会の連中は,「あのクソ幹事め。あんなに集合時間に遅れるなの,団体行動であることを念頭に置けだの口うるさく言っておきながら,自分が遅れやがった。バ〜ロ〜ン」と,口々に罵倒するに違いない。

 みけねこは,寂しく来た道をトボトボと戻りだした。

 

 十一章  海(ベイサイド・プロムナード)

ベイサイド・プロムナード

湾の外には太平洋が広がる

 ふと,下田公園を東側から降りることにした。道にかかった藤棚の下をくぐり降りていくと,海だ。そこは海岸線沿いの”ベイサイド・プロムナード”。夜になると,精力絶倫のカップルたちが練り歩く下田有数のエッチスポットだと聞く。ここをしばし散策してみよう。
 この遊歩道は,”ペリー上陸の碑”〜”海中水族館”までを『ベイサイドプロムナード』。”海中水族館”〜”大浦”までを『和歌の浦遊歩道』という。

 波が眩しくきらきらと光り,海からの風が心地よい。遙かに湾を横切る遊覧船・サスケハナ号が見える。一見,蒸気で動いているように見えるが,実は原子力で航行しているニセ蒸気船だ。
 静かだ。波の音がかすかに聞こえるばかり。灰色のネコがゆっくりと道を横切っていった。
 犬走島の先あたりまで10分ほど歩いて,そこでクルリとUターン。本当は海中公園まで歩こうかとも思ったのだが,ここらへんでいいだろう。みけねこは飽きっぽいのである。足が疲れちゃったし,それにもう12時15分。お昼の時間だ。

 先ほどの下田公園から降りて,このベイサイド・プロムナードに合流した場所ののすぐ先に,”ペリー上陸の碑”があった。ペリーの胸像の下にある錨は,アメリカ海軍寄贈のもの だ。ここの辺りは,小さな小さな”ペリー上陸記念公園”となっている。 ハトが,ベンチでお弁当を食べている人に,エサをせがんでいた。
 日米和親条約を締結したペリーが,さっそく開港された下田に乗り込んできて第一歩を踏み出したのが,鼻黒の地──ここであった。そして,軍楽隊が演奏しながら,ペリーロードを了仙寺まで行進していったのである。

 ここは,記念写真を撮るかっこうの場所となっている。事実,女の子グループが,「キャー!ペリー様よ。元気ハツラツー」とか言いながら,写真の撮りっこをしていた。どうにも気が知れん...

 

 十二章  思いがけぬ喜び(下田温泉・昭和湯)

昭和湯

 ハラヘッタ。みけねこは腹を押さえながらフラフラと歩いていた。

脱衣所。奥は浴室

 なんとなく大工町から駅方面へ右折した──そこに発見したものは,そそる。実にそそる建物である。
 ”昭和湯”。特に注目したのは,天然温泉と書いてある部分。そして,たまたま偶然にもみけねこは,堂ヶ島温泉ホテルからかっぱらってきたタオルを隠し持っていた。

 恐る恐る「男」と書いてある戸を開ける。やはり伝統的な銭湯だ!番台もあって,その向こうの女湯の脱衣所もちゃんと見える。なかなか本格的だ。番台に座っていたのは,「女の裸なんか見飽きたぜ」というような紳士のオジサンであった。さっそく,340円を払って脱衣所へ。張り紙が貼ってあって,「泳がないこと」「身体を洗ってから湯船に入ること」「たんやつばを外にはかないこと」とある。確かに理屈に合っている。
 「ここは蓮台寺から源泉を引いているんですか?」とみけねこ。番台のオジサンは,女の裸を見るくらいならレントゲン写真の骨でも見た方がずっとマシだと言うように答えた。「下田はみんなそうですよ」──パイプで引湯しているの かな?
 ガラス戸の奥が浴室だ。湯船は大変深い。みけねこがたぶん今日の初湯客だろう。確かに温泉であり,無色透明,やや薄いが熱い湯だ。フー,いい気持ちだ。

 ペルリ一行が日本人に対して抱いた印象はどんなものだったのだろうか?
 まず,ペリーはこう書いている。「彼等の道具の粗末さや機械に対する知識の不完全さを考慮すれば,日本の手工業は素晴らしい」つまり,東洋の黄色いサルにしてはなかなかやるじゃないかと。
 しかし,結婚した日本人女性のお歯黒に関しては,最初ひどい虫歯だと思ったらしい。『ひどく腐食された歯茎に生えている一列の黒い歯』・・・後で歯を染めていることが分かってからも,「これじゃキッスも出来なけりゃ,夫にとっても魅力的ではない」と バッサリ書いている。
 さらにペリーたちを憤慨させたのは,日本の銭湯が混浴であったことだった。欧米の文明からすれば,男女がスッパダカの丸出しでウハウハ混浴するなんて淫蕩でふしだら。日本人が道徳心のカケラもない唾棄すべき野蛮人である何よりの証拠と見なされ るのは当然であった。
 事実,義憤にかられた乗組員が「堕落した」「吐き気をもよおす」銭湯をノゾキに来たという記録も残っているし,ペリーが帰国後,議会に報告のため提出した『ペリー提督日本遠征記』(1856年)において,この銭湯の様子を石版画の挿絵入りで紹介したが, この挿絵故に大変な評判となった。さらにまた,この後,日本の浮世絵の春画が欧米に紹介されたことも,日本人の評判をグンと落としたのである。


下劣極まりない下田の公衆浴場の図

 帰り際,また番台の向こう側をチロリと見る。なぜ,みけねこは就職先に番台を選ばなかったのだろうか?そんな苦い思いがみけねこの頭をかすめた。

昭和湯

静岡県下田市3-5-11
.0558(23)0739
弱アルカリ性単純温泉
56度(源泉のパイプ口側)
午前9時〜午後9時
内湯(男女)
340円

 下田温泉は,市内に点在する蓮台寺温泉・河内温泉・白浜温泉・観音温泉などを総称したものである。残念ながらここ市街地には温泉は湧出せず,わざわざ湯量豊富な蓮台寺温泉から引湯している。漁港である下田には,昔は複数の銭湯があったが,現在残るはこの”昭和湯”一軒のみ。 貴重な銭湯温泉。是非いつまでも続いて欲しいものだ。

 

 十三章  なまこの謎(なまこ壁の館)

なまこ壁の館

 駅方面に向かう途中発見したのは,”なまこ壁の館”。ちゃんと地図にも載っている。
 なまこ壁は,四角形の平瓦を漆喰で塗り込めたもので,江戸時代に防火建築として流行した。下田の市街のあちこちに点在するが,よく見ると最近作られて飾りの壁もあるので注意。

 1854年11月4日。駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という巨大地震(安政の大地震)が発生した。地震発生から数分〜1時間後には大津波が発生し東海沿岸地方を襲った。下田では6〜7mの津波が押し寄せ,948戸中927戸が流失し,122人が溺死したという記録が残っている。ちょうど,福泉寺において,ロシアのプチャーチンとの日露交渉が行われている時であり,何回も繰り返す津波にロシア軍艦ディアナ号はほんの30分余りの時間に42回も回転したという。波に翻弄されながらもディアナ号は三人の下田の民を助け,その救助作業中に亡くなった水兵もいる。
 大破したディアナ号は,修理のため戸田に曳航される途中,ついに沈没してしまうが,乗組員は全て救助され,日本の船大工により代替船が建造され,プチャーチンはそれをヘダ号と名付けた。後日,ロシア政府はヘダ号と同型線を建造し,それに52門の大砲を据え付けて日本に返却った。(写真はヘダ号)
 開国・・・実は,アメリカとよりも,ロシアとの方が良き出会いであったのである。

 なぜ,下田になまこ壁の家が多く残っているかというと,あのディアナ号が難破した『安政の大津波』で全壊した民家に対し,諸外国に見栄を張るという意味もあることから,幕府が多額の貸付を行い,綺麗な町並みを作らせたそうである。

 この館はなんなのだろう?後で,調べて見たら,・・・なまこ壁の舘「雑忠(さいちゅう)・鈴木邸http://www3.tokai.or.jp/saichu/だそうです。
 元々は,廻船問屋であり,たったの千円でお菓子とお抹茶をいただきながら,見学出来るそうな。でも,外観からは何も分からなかった。

 伊豆急下田駅前まで戻って,食事処を探す。む?寝姿山ロープウェイ乗り場近くのビルに,「とん亭」と書いてあるビルを発見。フム...なぜかみけねこは,山に出かければ,新鮮なサシミを。海に出かければ,ブタニクを食べたくなる性分なのである。
 ここで,ヒレカツ定食(1,260円)を食す。フー。とん亭から出た時,伊豆南回りでやってきた,うつぼ会班と出会った。聞くところによると,延々とバスに揺られて,景勝の地に降りたはいいが,次のバスの時刻の関係で, たったの10分降りただけで,またすぐバスに乗って,ここまでやって来たと云う。バスの車窓から素晴らしき伊豆の海を見てきて最高だったとか...まあ。そんなところでしょう。あまりうらやましくないなぁ。たぶん,みけねこがこの班に属していたら,この記録の下田部分はかなり短くなっていたハズである。

 ただ今,13時。さて,どうしようか...

 

 終章 うつぼ会の別れ

 ずいぶん歩き回って足が疲れたし,暫時休憩しよう。
 近くに喫茶店を見つけたので,ここで一休み。みけねこがこんなに贅沢をするのは珍しいことだ。コーヒー(450円)を飲みながら,シグ丸をしばし開く...

 日本三大仇討ちとは何か。忠臣蔵は真っ先に思い浮かぶだろう。しかし,ここ伊豆にもそのうちの一つがあった。

 安元2年(1176)10月。ハト狩りの帰途,「四・一・二・六 四・一・二・六 はっきり決めた!・・・♪」と歌いながら歩いていた河津三郎祐泰は,工藤祐経の手の者により伊豆の伊東にて暗殺さる。これは,両者の所領争いが元であったとされる。ここに,河津三郎祐泰の幼い遺児・兄の曽我十郎祐成(九歳)と弟の曽我五郎時致(七歳)は仇討ちを誓うのである。 
 建久4年(1193)5月28日。いい国造ったと大満足の源頼朝は,富士山麓で大巻狩を催した。曽我兄弟は,工藤祐経の陣に斬り込み,見事工藤祐経を討ち果たしたのであった。
 しかし,兄の曽我十郎は,駆けつけた武士達との斬り合いの中命を落とし,弟の曽我五郎は,将軍に拝謁してから自害してくれんと,頼朝の陣の間近まで斬り進んだがついに捕らえられてしまった。
 「祐経を討つ事父の尸骸の恥を雪がんがために,ついに身の鬱憤の志を露はしをはんぬ。祐成九歳、時到七歳の年より以降,しきりに会稽の存念を挿み片時も忘るることなし。しかうしてつひにこれを果たす」
 頼朝の御前で,こう述べた曽我五郎。寵臣・工藤祐経を討ったオレンジ色の憎いやつめと思っていた頼朝も,その勇気にうたれ,一時は助命しようかとまで考えたが,そこに,工藤祐経の一子の涙ながらの訴えがあり,ついに斬首を命じた。 
 この事件は,当時としてもかなりセンセーショナルなもので,「吾妻鏡」にも記載されたのを始め,「曽我語り」や能,歌舞伎などでも人々に広まっていったのである。事実,曽我兄弟の墓は,全国に14箇所もあると云う。その後,忠臣蔵のせいで人気がすっかり薄れてしまったのだが。

 もうひとつ。日本三大仇討ちの最後のものとは何か。これは江戸時代初期。岡山藩の武士・渡辺数馬が,弟の敵・渡辺源太夫を追って,藩を飛び出して,義兄の剣豪・荒木又右衛門の助太刀を得て,ついに伊賀上野の鍵屋の辻で渡辺源太夫を討ち果たすという話である。

ハリスの足湯

 最後の最後に,お土産探しだ。駅前の土産物屋を何軒か歩いて,ふと,さっき市街を歩いていた時に見かけた小さな菓子屋のマドレーヌを思い出した。あのマドレーヌ。なんとしても買わねばなるまい・・・
 その小さな菓子屋は,”日新堂”。本当に小さな店だが,そこにあった張り紙によれば,あの三島由紀夫が,「このマドレーヌは日本一だ!うますぎて切腹しちゃうぞっ」と叫んだとか叫ばなかったとか。マドレーヌ(@136円)5個入り袋(2割引セールで550円)を買う。これ,そんなに甘くなくて美味しいですヨ。
 さらに,途中の”ハリスの足湯”へ。2000年に下田市中央商店街の駐車場脇にオープン。木戸の中に入ってみると,中は6人くらいが腰掛けられる足湯があった。「カイカイカイ!足の 水虫がカイー!」と三人の足の臭そうな男女が座っている。フーム・・・みけねこも,ためらいながらソックスを脱いだ。まさかムズムシが移りはすまいな。足湯では温泉湯処情報!にはカウント出来ないのが残念だが,まあ,一応話しの種に。

 最後の最後に,駅前でお土産をもう少し,わさび漬けと,カラスミの薄〜く薄〜く切って真空パックにしたのを買う。「お吉まんじゅう」なるものもあったが,呪いが込められていそうなので,これは止すことにした。 課への土産にピッタリかとは考えないでもなかったのだが。
 駅のベンチに座っていると,三々五々,うつぼ会員たちがやって来る。「お疲れ様」「お疲れ様」

☆伊豆急下田駅(15:00)−【踊り子110号】−東京駅(17:44)
*解散について:東京駅にて自由解散とする。

 帰りは,スーパービューではない普通の踊り子である。往路だけ何故かグリーン車のプラン。グリーン車とは我々にはいささか不釣り合いであるが。そして,ゾロゾロと乗り込 む。踊り子号は,馥郁たる植物が被い茂るうつぼ会の故郷を目指し,一路走った...

 これにて,うつぼ会の冒険は一巻の終わりとなる。結局のところ,みけねこはそれなりに楽 しんでしまったわけだが。
 ──うつぼ会のメンバーたちが,今回の親睦旅行についてどう思ったかについては,その表情からはついぞ窺い知ることは出来なかった。


うつぼ会の冒険−黒船旅行記(伊豆・堂ヶ島〜下田 )− 完


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