謎の吉田神社

 

「吉田神社」下交差点より

 笠間市から城里町を経由して水戸市へと向かう旧道を通る度に気になっていた。

 昔は山越えの難所として知られていたであろう中山峠(今では往時の面影はなく、やや急な山道に過ぎない)の少し笠間市寄りの処がそこだ。
 僕は、道路脇の広い場所にバイクを駐めた。「吉田神社下」交差点の左側の空き地に。草がぼうぼうと生えた鋭角の石段が天を真っ直ぐに指している。

吉田神社 笠間市大橋1264番地

 そこが「吉田神社」だ。 この名を冠する神社は日本各地にあるらしい。京都の吉田氏(卜部氏)のそれは有名だし、お隣の水戸市には、常陸第三宮の吉田神社がある。もっとも、ここの「吉田神社」とどのように関係しているのかは 、僕にはまったく分からない。距離からして、ここの神社は水戸の吉田神社の御分霊である可能性が高いように思われるが。
 吉田神社は戦勝祈願の神様系と聞いたことがあるが、その真偽のほどもよく分からない。

 そ──こは、清浄な冷たい空気が流れていた。空気が冷たいのは、夕方5時少し前という時間のせいかも知れなかったけれども。登り口には、殆ど文字の判別のつかない石碑がいくつか立っている。読めるのは、「吉田神社」(これ当然)「聖徳太子」(神社にはよくある)「?仁小学校跡」と書かれたもの。最初の一文字は何だろうか?調べてみたが、昔、ここ大橋地区には大橋小学校があったが、今は (池野辺小学校と共に)東小学校に統合されて存在しない・・・それくらいしか分からなかった。「?仁小学校」は、大橋小学校以前にあって、この道路を切り開く時に廃校となったのだろうか?

 さ、登ってみよう。僕の背筋は少々ひんやりしていた。

石段というか草段だ

低い鳥居には結界の縄

急な石段が続く

この先には?

 草を踏みつつ急な階段を登ると、すぐに背の低い鳥居が現れ、そこには結界が張られていた。おおむねは(テレビによると)、結界を破るとろくなことにはならないものである。僕は腰をかがめて縄の下をくぐった。これでもうだめかなぁ?

 先程は清浄な空気と書いたが、なんだか奇妙な感じがする。空気の圧力が増しているような。息が苦しいような。身体がすっごく疲れている。静かだ。が、しかし。その時!「こんこんこーん!」と叫びながら狐が飛び出してきた──としても、それどころか伝説の黒獣とかイロンナものが現れても、なんの不思議もないような気がした。

このモヤモヤは?

裏の本殿

この道はどこに?

倒木が道を遮る

 息を切らしながらようやく登り切ったそこは、小さな空間。平地が小さく開かれ、草は(おそらく)何ヶ月前かに刈られた様子であった。
 中央に、こじんまりとした拝殿があった。もちろん、ここが「吉田神社」だ。近寄ってみるとすぐに、決して立派な造りではないことが見て取れた。手入れはあまりされず、ぼろぼろである。時代は──そう古いものではない。明治か大正かたぶん昭和の時代だろうか。

 携帯のカメラで拝殿正面を撮ろうとしたが、どうしても、モヤモヤが写ってしまう。角度を変えても何度やってもだめだ。くっそ〜。非力な携帯カメラのモワレなのか、ただの呪いなのか。

 裏に回ると、塀に囲まれて、多分より古く、造りのしっかりした本殿があった。
 この本殿があるこの小さな広場を「?仁小学校」の子供たちが走り回っている姿を想像しようとしてみたが、どうしても無理だった。

 正面向かって左側に、細い山道が開かれている。奥の院でもあるのだろうか?僕は少しためらったが、思い切って足を踏み入れることにした。倒木を避け避け進むと、やがて山道は右へ折れて下りとなった。もう暗くなりかけている。もう五分進めば・・・とか分かっていれば強行するのだが──ここまでだ。あきらめよう。

 交叉点まで戻った僕は、辺りがまだ思ったより明るかったのに驚く。

 またいつか・・・次の機会がありましたら。そして、土地の古老がこの拙文を読み、「吉田神社」と「?仁小学校」の由来をお教えくださり、それをこの拙文に追記出来ますことを願いつつ。

 


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