穂積家住宅

不定期日記より。2006年9月8日(金)作成...


・・・序章

営業時間 9:00〜16:00
休業日 月曜(休日の場合はその翌日)
年末年始(12月29日〜1月4日)
入場料 無料
 *主屋使用の場合は有料。
  9〜12時 2,100円
  13〜16時 2,100円
  9〜16時 4,200円
 *業としての撮影の場合は,
   上記の10倍。 
住 所 茨城県高萩市上手綱2337-1
0293-24-0919
交 通 JR常磐線高萩駅から車で15分
バス停(川側入口)すぐ
常磐自動車道高萩IC下車1分
駐車場 無料40台

穂積家住宅 5世紀末頃、多珂国(久慈川以北の地を指す。現在でも多賀郡という地名が残っている)に、朝廷から国造(くにのみやつこ)が派遣され、大和政権の勢力下に入った。琵琶墓古墳をはじめとする古墳群の多さからして、ここ、現在の高萩地方が多珂国の政治の中心であったことが想像される。

 その後、高萩地方には、つまびらやかな記録はしばらく見あたらないものの、土豪達の勢力争いが断続的に続いていたものと思われる。
 鎌倉時代には宇佐美氏が地頭職(宇佐美氏は後に大塚氏傘下となるが、岩城氏の侵攻時に滅亡)にあり、室町時代には高萩地方の地頭職にあった寺岡氏・里見氏が、北方(現在の北茨城市)に勢力を張っていた大塚氏に追い出されたという記録が残っている。
 大塚氏は、竜子山城を築城して勢力を広げるが、後に福島県の岩城氏に攻められ、その勢力下に入って生き残る(六代目以降は、南方の佐竹氏傘下に鞍替えした)。

 安土桃山時代の慶長元年(1596年)に、8代に渡って高萩地方を治めた大塚氏は福島県に知行替えとなり、しばし岩城氏が高萩地方を直接治めるが、関ヶ原の戦いで徳川方に味方しなかったことで所領は没収。
 慶長七年(1602年)、戸沢政盛が所替えで松岡藩主(3万3千石)となり、竜子山城を改築して松岡城と改名するが、元和八年(1622年)。戸沢氏は出羽地方(新庄藩六万石)にへ移封され、その領地は水戸藩に組み込まれた。

 正保三年(1646年)。高萩地方は、水戸初代藩主・徳川頼房の附家老・中山信正の知行地となり、(一時期、常陸太田地方に所替えとなるが)そのまま明治の大政奉還を迎えることとなる。
 明治元年(1868年)、ほんの一瞬の間だけだったが、高萩地方は、新政府の粋な計らいにより松岡藩として水戸藩より独立。明治二年(1869年)、藩主・中山信徴、松岡藩知事に任命さる。明治四年(1871年)、廃藩置県により、松岡藩は松岡県となるが、その年のうちに茨城県に統一された。

 ふと通りかかった道に、そのやけに気になる場所があった。時々そんな場所がありますよね?寄ってみたかったが、その時は時間がなかった。
 時が流れ、そして今日またそこを通りかかった。ええと、半時間くらいなら大丈夫かな...よしっ!

 

・・・本章

穂積家住宅

 常磐自動車道・高萩ICを降りて右方向へ。車の通りが少ない四車線の県道67号を東南に進むと、ほんの1・2分ほどで、右側に広い駐車場が見えてくるはずだ。
 大きな看板もあるし、見晴らしのいい道だからたぶん間違えることはないだろう。

 広い駐車場には一台の車の影もない。ここまでガラガラだと、どこに駐めるべきか悩んでしまう。駐車場に隣接して、近代的なトイレとインフォメーションの建物があった。インフォメーションの脇からは石畳の道が延びている。

ここから進入す

インフォメーション&トイレ

★穂積家住宅 1

 安永二年(1773年)に主屋が建った豪農「穂積家」の住宅。白壁・瓦屋根の長屋門に囲まれた1200坪ほどの敷地に、母屋・土蔵・庭園・池などがある。
 穂積家住宅は、昭和55年に穂積家より高萩市に寄贈され、高萩市指定有形文化財に指定。平成元年には、茨城県指定有形文化財の指定を受けた。庭園は、平成11年に高萩市指定史跡に指定された。
 最初の建築後、何度も増築・改修がされているが、現代に残る江戸時代中期の豪農住宅の代表的なものである。「住宅」では、ヘーベルハウスやメケメケハウスをイメージしてしまうため「屋敷」と呼んだ方がいいと思うが、指定文化財の名称として決まっているのでは仕方ない。

 

塀に沿って行こう

右へ。左側は”池”という名の水路

長屋門だ!

門の中へ。右に記帳机

入って右側には、前蔵

遊歩道か、行ってみましょう

 小道を塀にそって反時計回りに回り込むと、二階建ての長屋門が現れた。これだけでも、我がスィートホームよりもでっかい。
 二階部分は昭和初期の改修で乗せたそうだが、武家屋敷(遠山の金さんか大岡越前クラス)みたいだ。農民の住宅と聞いて、時代劇によく出てくる、ドン百姓の掘っ立て小屋をイメージしていた人は、ここで考えを改めておいた方がいいだろう。
 門の中、右側に、記帳ノートを置いた小さなテーブルがあったが、誰もいない・・・今日の日付で、何人かは書き込んでいるにはいたようだった。

 雲は多いが、まだ夏の名残を頑固に主張する日差しの下、穂積家住宅は静かに立っていた。
 蝉の声がジーンと聞こえては消え、また聞こえる。日差しが強くなったり、雲に隠れたり。

 主屋に近づいて軒附けを見上げると、むっ。この作りは、まさしく『五段茅葺中竹節揃角市松模様寄棟造』じゃないか!まさかこんな鄙びた地方で、『五段茅葺中竹節揃角市松模様寄棟造』をこの目にするとは思いもよらなかった。まさかねぇ。『五段茅葺中竹節揃角市松模様寄棟造』がこんなところにあろうとはねぇ。

 まずは、ちょっとバックして、回りを歩いてみよう。みけねこは、キライなタマネギは先にグビリと呑み込んで、美味しいヒレニクは最後の最後に食べる主義なのである。
 門から入って右側に「前蔵」があった。おそらく、前にある蔵なので前蔵というのではないかと、みけねこの鋭い頭脳は看破した。嘉永二年(1849年)の建築とのことだ。その前蔵の前を”遊歩道”と表示されている小道がカーブを描いてどこかに向かっていた。よし、行ってみよう...

 静かだ。まるで、蝉の声が『五段茅葺中竹節揃角市松模様寄棟造』にしみ入るようだ。

 小道は左回りに折れ、庭園の真ん中にあるヒョウタン型の池を一周する。
 池には、金持ちっぽい鯉が悠然と泳いでいた。小道はその後、主屋の裏へ。そこには衣装蔵がある。衣装蔵は、おそらく衣装を入れる蔵なのではないかとみけねこは推測したが、やはりその推測は正しかった。今風に言えば、クローゼットですな。主屋から渡り廊下で繋がり、一階部分は衣装棚。二部分は十畳間があって、そこでフンドシやコシマキを脱いだりしていたらしい(もちろん着たりもしていた)。建築年代は意外と新しく、大正四年。

小道を歩む

向こうに主屋が

眼下には池 主屋の裏へ小道は回りこむ 衣装蔵

 

水路と井戸

★穂積家住宅 2

 天明の大飢饉では、特に奥羽地方の被害は甚大であったが、水戸藩内に餓死者は一人も出なかったと云う。寛政元年(1789年)、藩政庁は裕福な豪農などに屋敷の建築を行わせる”お助け普請”を命じた。これによって、困窮した貧民達は大いに助かったはずである。これは、今でいう失業対策のための公共事業だが、現代と違っていたのは、税金を一切使わないで済むってこと。その頃は、財産権を主張する人権屋も、お上の一挙一足に一々噛みつくマスコミもいなかったらしい。
 先に、主屋の建築年代は安永二年(1773年)としたが、”穂積家住宅も”お助け普請”を行い、その時に改築があたものと思われる。最近の保存整備で解体した時に安永二年建立と書かれた墨書が発見されるまで、その寛政元年(1789年)が穂積家住宅の建築年だと考えられていたのである。

 主屋の脇を水路が流れている。北にある関根川から水を引いており、酒造用の水車を回転させるのにも利用していたそうだ。その脇には井戸もあった。
 右の写真では、左に見える建物が主屋。江戸時代末期から残る屏風絵図によると、写真の井戸の右手前部分に大きな酒造蔵があったらしい。

主屋へ

土間

左奥を見る

右を見る。広間だ

★穂積家住宅 3

 穂積家のある上手綱川側地区は、山地がちで平野が少ない高萩地方にあっても、関根川流域にあって、耕作地としての条件に恵まれ た地であった。穂積家は、古くは鈴木姓を名乗り、穂積家住宅の主屋を建てたのは主水であるとされる。太郎太は(多額の献金の功もあって)安政三年(1856年)、松岡領主・中山氏の郷士として苗字帯刀を許される。穂積氏は江戸時代を通じて豪農 ・大事主として木材・酒造・金融業を営み、富を蓄えた。明治初期には蒸気機関を使用して、100人もの女工を雇う製紙工場を経営し、酒造業では千石を超える製造量を誇った(昭和12年の戦時統制により廃止)。 穂積家当主は、事業のみならず村長・県議会議員と政界でも活躍し、穂積家なければこの地の繁栄はないとされた。
 その後の穂積家がどうなったかは分からない。昭和55年に穂積家住宅をポッポーンと高萩市に寄贈したのは(おそらく)穂積家であろうとしか。どこに住んで何を営んでいるのであろうか...

 表に回り込んで──いよいよ主屋へ入ってみよう。
 「ゴメーン!」(別にあやまっているわけではない)みけねこは、広い広い土間に立っていた。後楽園球場がいくつ入るであろうか?
 桁行12間半、梁間6間に主屋は広がる。仰ぎ見れば、おいおい。あの小屋梁を見たまえよ...

 この土間スペースは、洗車とかDIYをするに最適だ・・・右の方は、板を張った広間となっている。広いね〜。みけねこはふと、穂積家の人々がここでカーニングをしている姿を思い浮かべた。

★穂積家住宅 4

 穂積家住宅は、何度か小規模な修復は行われてきたものの、建築後200年を経過し基礎をはじめ各所の痛みが激しくなっていたところ、1993年の関根前川の氾濫で穂積家住宅も浸水により大打撃を受けた。ついに市は貴重な文化遺産を後世に残すため、総事業費は3億6千6百万円を投じて、平成11年度から4カ年かけての抜本的な大修理が行った。屋根や壁を解体し、建物を持ち上げて基礎部分から造り直し、新しい茅で屋根を拭き直し、昔ながらの工法で衣装蔵や塀なども修繕された。

 やっぱり誰もいない。しかし、どうやら上がってもいいらしい。よし。靴をスルリと脱いで、広間へ。ズイズイズイ。なんか、汚いものが美しい場所を汚すような気後れを感じてしまうのはなぜなのだろうか。

前座敷

縁側より池を見る

奥座敷 洋風の椅子だろうか? 突き当たり右が衣装蔵

 前座敷からは、庭園が見渡せる。裕福そうな鯉がこっちを見て、金歯をむき出した。おのれっ。この庭園は江戸時代に造られたもので、関根川より水路を経て水を引いている。縁側を伝って奥座敷そして下屋へ。江戸時代のキンカクシ発見。急にみけねこはオシッコがしたくなった。よく、住宅展示場とかに見学に行って、トイレで多量のウンチをしちゃう人がいるが、その後、展示場の人が大変な思いで掃除をすると云う(あのトイレは下水に繋がってないのだ)。その先に、衣装蔵に行くための渡り廊下がある。意外と純粋な生活スペースと言える場所は狭いのかも知れないな。もちろん、そりゃあ〜ウチよりゃ広いですけどね。


さあ。帰ろうか・・・

 穂積家住宅の訪問の間、結局、人っ子一人見かけなかった。しかし、掃除は行き届き、電灯は黄色く輝き、今にも穂積家の人々が──得物を振りかざしながら「泥棒だア!」「たたんじまぇ」と叫びながら、奥から出てきそうな気がした。
 これぞ典型的な無駄な施設。非効率的でカネ喰い虫で。...まったくだ。みけねこは思った。こういう無駄な施設は──実にいいものだ。ネズミーランドと穂積家住宅とではどちらが重要かと問われれば、答えはもちろん決まりきっていますね?

 さらば。短い訪問の時間はもう尽きた。またいつか・・・

 

・・・終章

1889年(明治22年) 4月 1日 秋山村・島名村・安良川村・高萩村・伊師村の一部が合併し、松原町に。
1937年(昭和12年) 10月 1日 松原町が高萩町と改名。
1954年(昭和29年) 11月23日 高萩町・松岡町・高岡町・黒前村の一部・櫛形村の一部が合併し、高萩市に。

 明治の時代には、多賀郡の中心として郡役所・税務署・営林署などが設置され、石炭の産出で大いに振るわった高萩だったが、エネルギー革命によって昭和42年に最後の炭坑が閉山。平成14年には日本加工製紙が自己破産し、これは茨城県最悪の倒産と云われた(その後、日本加工製紙の臭いが無くなったため、電車を乗り越す被害が続出したとか)。平成17年には、駅前のイトーヨーカドーが撤退し、その跡地は今も更地となったままだ。


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